院長ブログ

2018.09.26更新

今日、水曜日は午後から休みなので、用事で銀行に行った。

広島の家のローンを一括返済するためだ、やっとローン完済だ。手続きはネットでできるのだが、なんかややこしくて、結局、お願いして銀行に直接足

を運んだ。行内は少し混んでいて慌ただしそうだった。銀行はめったに行かないので、どうしてよいかわからず、うろうろしていたら、優しそうなおじ

さんがいたので(歳は私と同じくらいか?)予約してある旨を伝えたら、案内してもらえた。

専用窓口に座ると、係りの女性に見覚えがあった、心の中で、あっ、患者さんだ と思った。その女性も何だか気づいているようだった。

いろいろ説明を受けたが、女性のことが気になって仕方がなかった、説明も上の空で聞いていた。どういった患者さんだったのか?どういう治療をした

のか?よくなったのだろうか? 満足してもらったのだろうか? とかいろいろ頭で考えたが、分からずじまいだった。非常に丁寧に説明していただい

た。返り際、一瞬、お大事に、と言いそうになってちょっと焦った。 文庫では、なるべく人の多い場所は避けている、以前、あるお店でピザを買う為

に並んでいると店の中から せんせ~い と大きな声で呼ばれたことがあった。他のお客さんが一斉に私のほうを向いて恥ずかしい思いをしたことがあ

り、その次からはマスクをつけていったが、その店員さんは不思議そうな顔をしていた。実は私はいい年をしてshyなのである。本当は女性は苦手なん

ですよハイ。ですから、街を歩くときなどは下を向いて歩くことが多いです、愛想が悪いわけではありません、ただ恥ずかしがり屋なだけです。人生と

いうものは下を向いてはいけない、真っすぐ前を向いて歩きなさい、涙がこぼれそうになったら上を向きなさい。でも、人間だから、つらい時、悲し

い時だってある、その時は、下を向いて歩くことも  taisetu nanokamo siremasenne。

投稿者: 迫田産婦人科

2018.09.13更新

やっと涼しくなってきた、今年の夏は異常だった。

この時期になると、この曲(夏の終わりのハーモニー)が蘇ってくる。

この曲をはじめて聞いたのは、小さな飲み屋であった、同期入局の(会社で言えば入社)S君がカラオケでこの曲を歌っていた、そういえば最近カラオケ行ってないな~。 S君は、大学から広島の関連病院に転勤することになっていた。(あの時代、教授は超絶大な権力を持っており、人事権もあり、医局員を好きなように動かしていた。)私はS君が好きだった(恋ではない)。こんなエピソードがある、S君は大学で超音波グループに入っていた(医局は当時、超音波グループ、腫瘍グループ、不妊グループの3つに分かれていて、ちなみに私は不妊グループに入っていた)が、資料集めの仕事のために、カルテを医局の自分の机に置いたままにしていた。みんな時々そうしていたが、たまたま、ある患者が外来を受診した。その患者のカルテが見つからなかった。今と違いアナログ時代であるから、カルテは診察に欠かせない。いろいろ探した結果、彼の机の上にそれはあった。さあ~、登場、こわもての外来医長のT先生に呼び出された、ご想像にお任せしますが、それは、それは、それは可哀そうだったです。このT先生には私もずいぶんお世話になったから、悪く言うつもりはないが、怒った時はいささか尋常ではない。エピソード:夜の11時過ぎ、家の電話が鳴った、こわもての外来医長T先生からである、今飲み屋にいる、帰るから迎えに来い、との御電話であった。そろそろ寝ようかな~と思っていた私はそさくさと準備をし、車を走らせ仰せつかった飲み屋に行った。その店に入るなり、T先生はお怒りになった、どんだけ待たせるんじゃあ、実は電話を頂いてから、20分ほどしか経っていなかった。土下座して謝れえ と仰った、躊躇なく私はその店の冷たい土間で正座をし謝った。店のママ(おばさん)が私に向かって、先生、そんなことやめなさい  と言ってくれたが、私は額をその土間につけ謝った。青春の思い出である。お互い若かった。そんなT先生だから仕事上のミスは容赦はしない、翌日S君は坊主頭になっていた。5分刈りというやつで超短いカットである。あの時代、長髪が主流であったのでS君の坊主頭はインパクトがものすごかった。彼の頭は注目の的であった、潔(いさぎよ)かった。不謹慎かもしれないが、良い奴だなあ~と思った、さぞかし躊躇はあっただろうに、命令に背かずさっぱりと頭を丸めた。ちょっと抜けたとこもあったが仕事は熱心だった。そんなS君が飲み屋で一人で歌っていたのが 、夏の終わりのハーモニー だったのである。いい曲である、夏の終わり、この曲とともにS君を思い出す、大学を出てからは一度も会ってはいないが、四国の病院で頑張っているようだ。機会があれば動画サイトで見てほしい、玉置浩二のソロも良いが、どこかのコンサートの締めで、初めて井上陽水と披露した時のものが好きである。陽水も玉置浩二も若いし、声が良いちょっと感動ものです、是非。

投稿者: 迫田産婦人科

2018.09.09更新

大坂選手、全米オープンの50周年記念大会で優勝。セレナを破っての優勝、おめでとうございます。

圧倒的な強さで勝ち進んでの優勝、見事でした。これから、どこまで勝ち続けるのでしょう。

トロフィーセレモニーも素晴らしかった。泣けた、セレナが好きになった。

一方、大谷選手は約200打席で19本のホームラン、まさに、ホームランバッター。

大谷選手は、2億円ちょっとの契約金でアメリカに渡った、来年まで待てばこの100倍ぐらいの値段がついたでしょう。それでも大リーグでプレイがした

くてアメリカ行きを決めた。約200憶円ですよ、考えられない。これが大谷選手なんですな。活躍が期待できます。

いずれも、大きな坂と谷、平坦ではないが頑張って。

投稿者: 迫田産婦人科

2018.09.08更新

開院して18年経つが、医者になった頃は、開業医になるなんて思ってもみなかった。

勤務医時代は手術、分娩と多岐にわたり仕事をしていたが、それなりに充実していた。

ある、きっかけで、見たことも聞いたこともない金沢区で開業することとなった。

開業が決定してから、約ひと月で開院した。

開院前は、広島で働いていたので準備が大変だった。寝れなかった、いや、寝る暇がなかった。47歳だった。

開業医なんてたいしたことないと思っていたが、大間違いだった。 朝から晩まで外来をこなすのは今もそうだが大変である。

開業しての睡眠時間は4時間ほどだった、勤務医時代よりも過酷だった。

そして当然のように、開業後2年でノイローゼになった、かなり自暴自棄になった、危うかった。

立ち直れたのは、妻(本当にありがとう)、家族、スタッフ、それと患者さんの励ましだった。ここですべての人に感謝を申し上げる。ありがとうご

ざいます。

 

勤務医時代は回診も大事な仕事である、すべての患者さんの状態を把握しておくためにも。

産婦人科の病床は、産科、婦人科の患者さんが入院している、当たり前か。

だが、そこでは、婦人科病床に小児科の患者(さんを省きます)も入院していた。小児科の患者といっても、歳は20前後、小児科の先生が患者が小

さい頃から診ていた。 血液の病気であった、時々輸血が必要だった、難病であった。輸血のインターバルも短くなっていた。

回診の際の、雑談か世間話かわからないようなやりとりを、横で微笑みながら聞いていたのを今でもはっきり覚えている。

物静かな女性であった、たまには帰宅はしていたが、その時はずいぶんうれしそうにしていた。しかし、長期の入院生活を余儀なくされていた。

恋もデートもままならなかった。 彼女は音楽が大好きで、なかでも当時流行っていた、スピッツの大ファンであった。

ある日、枕元にカセットテープがあったので誰の曲? と聞くと、ちょっとはにかんで スピッツです と彼女は言った。

興味があったので、是非聞いてみようと思いそのテープを借りた。

それから、1週間ほど経った日の朝、いつもの回診の時、彼女のベットがきれいに整頓されていた。

その日の明け方、医師の懸命の救命処置にも拘わらず彼女は帰らぬ人となった。

あのカセットテープは返せないままでいる。

 

 

投稿者: 迫田産婦人科