咲ちゃん
その日の朝9時ごろ、外来診察中に電話がありました。咲ちゃんのお母さんからでした。咲ちゃんのお母さんは里帰り出産のために、3月末から実家に戻っているはずでした。
私はその時、一瞬何か言いようのない不安に駆られました。なにかあったのだろうか?分娩が近づいている妊婦さんからの電話はドキッとさせられます。恐る恐る電話に出ると「あ、先生、生まれました。」「え?・・・いつ〜?」「つい、さっきです。」「えっ、さっき?」「はい」さっきもさっき、なんと、咲ちゃんのお母さんは分娩後3時間しか経っていないのに、わざわざ病院から電話をかけてきてくれたのです。電話の声はとてもお産が済んだばかりの人とは思えない位元気で生き生きとしていました。お産が楽だったこと、分娩時間が非常に短かったこと、元気な女の子だったことなど話してくれました。
電話ではもちろん表情は分かりません、でもどんなに喜んでいるかは分かりました。わざわざ電話をかけてくれたことに感激し、無事お産が済んだことに安堵し、また、お子さんが元気であることにホッとし、私は喉が詰まってしまいました。
お母さんの気持ちが良く分かるからです。お母さん、ここまでの道のりは大変でしたね。私は分かっていますよ、お母さんが何度となく泣いたことを、何度となく絶望しかけたことを。でもあなたはやり遂げた、あなたはやっぱり強かった。
思い起こせば、あれは3年前の春、お子さんができないということで来院されました。それからは辛い検査や治療の連続でしたね。基礎体温をつけることすら苦痛な日もありましたね。注射のせいで肩が腫れあがったこともありましたね。お腹の大きい人を見るのが辛かったこともありましたね。なかなか妊娠に至らないので、私もあなたの顔を直視できないことも時々ありました。
そうして、平成14年9月27日に、妊娠されていることが分かりました。あなたはもちろん喜んではいました、けれども過去に流産の経験をされているので、手放しには喜べませんでしたね。つわりも、軽い日があれば重い日もありましたが、軽ければ流産じゃないかと心配し、重ければ赤ちゃんに異常があるのじゃないか心配と、不安の連続でした。それから1ヶ月位経って、ようやくあなたも私も自信がでてきましたかね、今思えば。その後は、膀胱炎や貧血になったぐらいで本当に順調すぎるぐらい順調でした。そしてあなたは里帰り出産のために横浜を離れました。それからもあなたのことを折に触れ思っていましたよ。
今年の5月 ( 平成16年 )、1歳になった咲ちゃん、お母さん、お父さんの三人でわざわざ来ていただきました。久しぶりに見るあなたの顔は、お母さんの顔でした。とっても優しくて、自信にあふれていました。そして、咲ちゃんがお父さんそしてお母さんにあたたかく包まれていました。帰り際にお父さんが一礼されました。私は、おめでとう、よかったですね、頑張ってくださいと頭を下げました。
レッドロブスターと白い杖
仕事を終え車で出かけた、平日の夜の湘南は週末と違い道路も込んではいない、予定より早く到着した。別に予約は取っていなかった、が席も空いていて、すぐに座ることができた。
メニューが多いのでなんにしようか少し迷ったが、いつも食べているものを彼女の意見も聞かずに注文した。彼女は好き嫌いがないと言った。サラダ、ロブスターのピザ、スープ、肉、蟹、デザート全て美味しかった。特にピザとロブスターは絶品だった、彼女は少々緊張しつつも、私の食べるスピードに追いつくように全てをたいらげた。
これには私も驚いた、女性には少々多すぎる量だったからである。おそらく彼女は残すのは申し訳ないと思ったのだろう、私はその彼女の気持ちが嬉しかった。多分、私は何十回も彼女にこう聞いた「美味しかった?」、彼女は恥ずかしそうに何度も「はい、ありがとうございます」と答えた。
横浜に来て5年、聞けばロブスターは初めてらしかった、となりにいたうちのスタッフが「えー、そうなの」とびっくりしていた。しかし考えてみれば私だって始めてロブスターを食べたのはおそらく30代の頃だったから彼女のほうが進んでいるのかも。
純粋な若者との美味しい食事、決して豪華ではないが心が豊かになる食事を終えその店を出た。帰りは湘南海岸沿いの葉山経由にした、気分が良かったし、彼女は海が好きだからだ。
家の近くまで送っていき彼女はそこで車を降りた、それから私は車をユーターンさせた、その瞬間、暗い路地を白い杖を突きながら歩く男性が目に入った。その男性は年齢がおそらく30代位だろうか、背をちょっとまるめて夜道を一人歩いていた。私は何故か「頑張れ」と心で叫んだ、そして不思議なことに目頭が熱くなった。純粋な若者、そして白い杖の男性。頑張って、そして負けるな。
これは、一昨年、本当にあった、こわ〜いお話です。
今思えば、よく水を飲んでいた。ゴルフ場で1ホールごとに水をがぶ飲みしていた、その時は気にも留めなかった。 体は痩せていった、3日に一回は練習場に通っていたから、そんなものだろうと思っていた。
ズボンのベルトは穴を新しく作らないといけなくなっていた。 今年に入ってからゴルフは休憩した、でも、体は痩せていった、なにかが起こっているとも思はなかった。城ヶ島で写真を撮った、それを見た義理の母が、「良一さん痩せたわね」と言った。あらためて鏡でよく見ると確かに痩せていた、が、まだ気に留めなかった。
これは異常だと認識するようになったのは4月頃からである。癌を疑った、胃が時々痛いから消化器系か?時々咳をするから肺か?はたまた膵臓か?しかし、癌になって体重がこれだけ落ちると初期ではないなと思った、進行癌だな〜と思った。 患者から、先生痩せましたね〜とたびたび言われるようになった。だが、休むわけにはいかない、他人にこの医院を任せられない。 こんな俺でも頼りにしてくれる患者がいる、覚悟を決めた。 人間死ぬ時は死ぬ、これも俺の運命なのだ、そのときが来たと思った。
後のことを考えた、子供のこと、女房のこと、大丈夫、俺がいなくともやっていけるはずだと思った。 体重はすでに11キロ落ちていた。 全身倦怠感が出てきた、疲労が取れなくなっていた。 腕、太もも、首、明らかに細くなっていた、鎖骨が浮き出ていた、肋骨が何本もみえた、ひざから下にむくみが出るようになった、頻繁に下痢になった、動悸が激しくなった。 睡眠障害も出てきた、自分の動悸の音で眠れなかった、夜中恐ろしいようにジュースを飲んだ、無理がきかなくなっていた。朝起きて顔を洗い歯を磨くのでさえ体がしんどくなり、診療も30分やると休憩したくなった。 100メートル歩いても動悸がはげしかったし、まっすぐ歩くことさえ難しくなっていた。
或る時、診察中、手が震えるのに気がついた、コップを持つ手も震えていた。 それからはたと気づいた、両腕をまっすぐ前につきだしてみた、案の定、手先が震えていた。 女房も甲状腺機能亢進症だった、その弟もそうだった。 血液検査をした、結果は思ったとおり重症の甲状腺機能亢進症だった。 すぐに内服を開始した、動悸は7日でなくなり、みるみる全身状態が回復するのがわかった。 まるでポパイがほうれん草を食べるように元気になっていった。
体重も元にもどりつつある、筋肉もつきだした、健康に感謝した。働けることに感謝した。 代謝性疾患、たとえば糖尿病、甲状腺機能亢進症、低下症などはさまざまな症状が出ます。 私の場合、体重減少、動悸、のどの渇き、しつこい下痢、筋力の低下、むくみ、手の振るえ、不眠、精神症状、これが半年のあいだに出現しました。 医者の不養生ですが、自分の体を客観的に見る難しさを思い知らされました。
ある麻酔科医
今から10年前。
後ろから怒鳴る声が聞こえた、“お前、何を言っているのかわかっているのか”。
病院の廊下に響き渡るような大きな声で、私の上司は怒鳴っていた。
先ほど、病棟会議があったばかりである。出席したのは、産婦人科医、産婦人科担当看護師、助産師、それと麻酔科医であった。
私が勤務しているこの病院の昨今の分娩数の減少は憂慮すべきものがあった。医師、看護師、助産師、みんな分娩数の減少に歯止めをかけるため必死に働いていた。
中国地方の田舎のこの都市は高齢化が進み、若い人の人口比率が減少していた。当然、分娩の数もそれに比例して少なくなっていた。企業努力といってもいいだろう、みんな頑張っていた。しかし、若い人が少なくなっていくのはどうしようもなかった。広報活動、様々なサービスなどあらゆる手を尽くしてはみたが効果はあまりあがらなかった。
日本の経済がまさに中央集権化していく狭間の中で地方はその存在意義を失いつつあった。若い人は故郷に戻らない、いや戻りたくても仕事がない。親、自らが子供にUターンを押し留めるようになっていた。地方は高齢化が進み、子供が少なくなる、人口の偏在化が顕著になっていた。
若い女性の田舎離れにより、分娩数は減少の一途を辿り、スタッフ全員がどんなに頑張ってもそれを食い止めることはできなかった。
そんな中、ある案が持ち上がった。それは、和痛分娩をやろうということだった。和痛分娩とはご存知のように、腰に麻酔をし、陣痛を和らげようというものである。その話は私の知らない間に進んでいた。
私は当時、産直(産科待機、分娩や救急患者を診る仕事。別に院内には居なくても良かった。何故なら、私の官舎は病院の目の前にあり、その距離も3m程しかなかった。当然、どの医師よりも病院の近くに住んでいた。)を月の半数以上こなし、かつ、病院全体の救急当直も月に数回やっていた。産婦人科医の異常な労働環境は別に今に始まったわけではない。地方では大都市よりも早期に分娩数の減少が始まり、病院内の稼ぎ頭であった産婦人科の地位は落ち、不足する産婦人科医師の補充もままならなくなっていった。
また、そういった現状を悟った学生たちの産婦人科離れも顕著になっていき、産婦人科医師数の減少が始まっていた。私の大学の教授はこのことに早期に気づき、県などに陳情したが無駄であった。
今日の産婦人科における様々な問題は実はもう10年以上も前からおこっていたのである。
和痛分娩をやるらしいという噂は私の耳にも入っていた、助産師達も私に“先生知っています?”とたびたび聞いてきた。よくあることだが、大事な話は、現場で働いている人間には一番後である。そして、大体、既に結論はでている。いわゆる、事後承諾というやつである。
和痛分娩に関して全否定するつもりはさらさらない。分娩が遷延し、陣痛で苦しんでいる妊婦さんをみるとこちらも耐え切れないことがある。そういったケースでは和痛も良いだろう。しかし、分娩、言い直せば、お産、は太古の昔からパターンは同じである。陣痛が発来しないと分娩は始まらない、この何時間にもあるいは何日にも亘る痛みがあって分娩が成立する。この試練を乗り越え女性は母となっていくのである。古いなー、女性蔑視じゃない?男の身勝手よ、先生も経験したら分かりますよどんなに辛いか、と声が聞こえてきそうですが。
助産師諸姉は自然分娩を好んでいた、手作りとでも言おうかそんなお産を是としていた。私も考え方は同じだ、医者がしゃしゃり出ることがないお産がベストである。薬など使わずに、古典的なお産が可能ならば最良である。故に、今回の和痛分娩の話には賛同するものが皆無であった。助産師諸姉の反発はそうとうなものがあったのである。特に私見ではあるが、分娩数アップを図るためのコマーシャル的な臭いがしていた。
そして今回の病棟会でその議題が出たのである。噂は本当であった。上司から経緯、目的、等の話があり、麻酔科医からはさらに具体的な説明があった。ここでは詳しいことは省略するが、要するに、今まで以上に分娩管理が重要となるし、アクシデントも起こりえる。ここで誤解をされては困るので一言、今現在、和痛分娩をおこなっている施設は多い。ご苦労は容易に想像できる。私が勤めていたその病院でも既にやっていたし、私も硬膜外にて和痛を行っていた。しかし、対象は遷延分娩(分娩時間が長くなる)で疲労がはげしくなった場合とか、陣痛に対し恐怖を抱きパニックになる場合などであった。 我々が本来やるべきことは、かっこつけるわけではないが、妊婦を励まし時には叱る事もあるが、一緒になって頑張ることが大事であり、それでも駄目なら麻酔を選択する、そういうことではないだろうか。
私は、その麻酔科医に食ってかかった、もう忘れたがほとんど喧嘩であった。しかし、彼は冷静であった。今思えば、どこかで私の気持ちを分かってくれていたような気もする。そして、私も彼の気持ちが痛いように分かっていた。お産というものがどんなものであるかということを、彼は私よりも知っていた。